【念う(おもう) 仏教 VS 科学】
お疲れさまでございます😌
邪気まみれの日々を送っておりますたくふぁんでございます。
※邪気を宿す脚。
さてさて、
久しぶりのブログでございまして、今回は以前参加しました「親鸞フォーラム」で聞いたお話を元に私見を交えて書きたいと思います🤗
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【科学 VS 仏教】
テクノロジーの発展と進歩により、我々はさまざまな苦から救われていると日々思うておりますが、仏教では、人間が生きていることで逃れられない「苦」があるといわれております。
いわゆる
四苦八苦(しくはっく)
でございます。
- 生…生まれること。
- 老…老いていくこと。体力、気力など全てが衰退していき自由が利かなくなる。
- 病…様々な病気があり、痛みや苦しみに悩まされる。
- 死…死ぬことへの恐怖、その先の不安。
※八苦は「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五陰盛苦」とあります。
四苦八苦は
4×9=36
8×9=72
36+72=108
と、煩悩の数になりますね😉
この四苦を人間は科学の力でコントロールしようとしております。
ひとつの科学に対する考えも時代と共に変化する倫理観から、楽観論なる平和的なものとみなすこともあれば、残虐的に恐れられることも・・・。
所詮、人間が生み出した 不完全なモノ に過ぎないのですが、今では科学無しでは生きていけず、この不完全なモノを中心にしてしまうことにわたくしめは危うさを感じてしまうのでございます🤔💦
しかし、
人間が作ったもの = 不完全
となると、
宗教もまたしかり、なのです。
では、
不完全なる科学
と
不完全なる宗教(仏教とする)
で今現在の科学を中心とした世の中をどう受け止め考えるか。。。
「科学的立証」とあります。
これは・・・科学的証拠(かがくてきしょうこ、英: Scientific evidence)。
科学的理論や仮説を支持したり反論したりする働きをする証拠である。
一つの事柄について、結果が同じ。
しかし、これに対し宗教はもっと複雑です。
ここで、
「おもう」
を取り上げたいと思います。
「おもう」にもいろいろな「おもう」がございますね☺️
思う、想う、憶う、惟う、懐う、意う、
そして
「念う」。
人間には三つの性があります。
知性、理性、感性です。
そして、人間を超えた性としての「霊性」というものがあります。
わたくしめはこの「霊性」こそ「念う」に通ずるものではないかと思うのです。
他の「おもう」は対象となるモノをおもうもの。その対象となるモノをおもい浮かべおもうこと。
「念う」は無意識のうちにあるおもい。
例えば、日常において、愛息子を学校に送り出した後、わたくしめはわたくしめで、家事をしたり、パートに行ったりと息子とは異する世界で生きているのですが、その間も無意識のうちにわたくしめは愛息子の安全と幸せを念っております。
きっと、皆様もそういう無意識のうちに念うことあると思うのです。
それはきっと、知性や理性や感性とは異する霊性であり、人間は人間がおもっているよりも複雑なおもいを抱えているのだと思うのです。
この複雑な「おもい」から科学的立証のようにはいかない、多様なる無限の結果、終わりなき結果、矛盾撞着状態になりうるのです。
このように「おもう」ひとつを上げても、人間の生活は多層的であり、科学はある一つの層にしか過ぎず、人間にしかない層が存在するのだと思います。
この四苦八苦な世の中、科学ではコントロール出来ない人間特有の「苦」を、わたくしめは仏教に期待せざるを得ないのです。
科学では無くせない、はみ出してしまった「苦」をわたくしたちは受け入れ、諦(あき)らかにすること。
四苦八苦、それが人生のそのものではないか、と。
目を背けてはならないのです。
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【科学 VS 仏教】の勝敗は・・・どうでしたか?☺️
二つとも不完全なるモノにしか過ぎず、偏りすぎては危ない危ない😉😉😉
🌸たくふぁん🌸